【インタビュー】オノコボデザイン 小野 信介
延岡でポスターやパッケージなどたくさんのデザインを手掛けられているオノコボデザインの小野信介さん。延岡でデザイナーとして独立されたお話や、エンクロスロゴの誕生秘話、ご自身のデザイン哲学まで、様々なことをお話し頂きました。
―延岡でデザイナーというお仕事をされていらっしゃいますが、デザイナーを目指した経緯や、若い頃、何をされていたかを教えて頂けますでしょうか?
小野:学生の頃は美術のことなんか全然勉強してなくて、それこそデザイナーになるつもりは全くなくて、どちらかというと編集者やコピーライターになりたかったんです。それで東京行けば、何とかなるかなと思って、東京に行ったんですけど、やっぱり都会に暮らし続けるのは無理だなって思いました。田舎がいいなと帰ってきたけれど、クリエイティブな仕事はないじゃないですか。
最初は造形物、壁画やモニュメントを造る仕事をしていました。昔は公共事業で学校やトンネルの入口に壁画が描いてあったり、公園に造形物を造ったりしていたんです。
県外の会社が宮崎に営業所を作るというので、そこに就職して3年は勤めたんですけど、勤めるのは、性に合ってなくて(笑)。独立をしました。
10年間くらいはその仕事とパソコンを使って絵を描く仕事をしていました。完成予想図描いたり、プレゼンを作るのを代行したりする様な仕事ですね。
そのうちに、だんだんデザインだけが残った感じです。目指して勉強したのでは全然なくて、デザイナーになったのは成り行きです。
―大学卒業して、すぐ宮崎に戻って来られたのですか?
小野:そうですね。卒業前の1年間は東京で就職するか、宮崎で就職するか迷ってて。結局はシーガイアを運営する会社、『フェニックス国際観光』に就職しました。オーシャンドームや高層ホテルが建てられていた時期で、そんな大きな会社で企画とか広報の仕事が出来れば面白いかなって思ったんです。
ところが4月に入社していろんな現場での研修期間が終わって、配属になったのが経理部だったんです。で、なんと5月の始めには辞めてしまいました。
根性がないですね。うちの実家が民宿だったこともあって、サービス業もいいかなって思って、その中で少しでもクリエイティブな仕事に関われたらな・・・くらいに、働くということを真剣に考えてなかったんですね。
その後、東京に一回戻ったんですよ。アルバイトしながら考え直そうと思って。でも一週間で、「東京やっぱ無理だな」って(笑)。
で、すぐに帰ってきて、「何か仕事をしなきゃな」となった時に造形の仕事と出会って。たまたまそれがデザインに絡む仕事だった。という感じですね。
―昔は学校とかトンネルに壁画とかが多かったですよね。あれで郷土を表現するみたいな。
小野:それが今だから言えるんですけど、僕的には少し罪悪感を感じながら仕事をしていたんです。
学校とか公共施設って、何十年も残り続けるものじゃないですか。そこに残す造形物のデザインに対して要求されることの殆どが「この村は蛍が名物だから蛍をメインに描いてくれ」だったり、「もっとカラフルに派手にしてくれ」だったり、看板と感覚が一緒だったんです。
派手なデザインはやめて、もっと落ち着いたちゃんとしたのにしましょうと提案しても、採用されるデザインが、安直なデザインが多かったです。
それに疑問を感じていたこともあったし、グラフィックデザインの方が人の役に立てるはずだと、少しずつシフトしていきました。
最初は絵の具と筆、エアブラシを使ってイラスト描いたんですけど、Macが出てきてからは色んな事が出来るようになりました、求められるままにパンフレットを作ったりしながら習得していった感じですね。
―パソコンが出てきて、抵抗なくいけたのですか?
小野:それまでパソコンは全く触ったことがなかったんですけど。思い切ってMacを買いました。当時は信じられないほど高い買い物でした。
でもMacを使い始めて、道が開けたというか、世界が広がったというか。スティーブ・ジョブスのおかげで人生が変わったと言ってもいいですね。
パソコンのおかげでできるキレイなデザインというものに随分助けられましたが、今は、いかに汚していくか、というかキレイすぎない、人の手が感じられるデザインじゃないと面白くないと感じています。
今はほとんど手描きが基本です。手描きでデザインを考えて、仕上げでMacを使う感じです。
―そうなんですね。手描きではないと思っていました。
小野:エンクロスのロゴはパソコンで作ったようにみえますが、ノートの中である程度出来上がって、最後だけパソコンで仕上げています。
このノートで24冊目なんですけど。大体、半年で1冊ぐらいのペースで10年は使っていると思います。ずっと同じノートを使っていたのですが、これが廃版になってしまい、最後の1冊になったんです。なので、次のノート探しています。
小野:最初は、エンクロスの名前から、円がクロスするってところから攻めていって、結局それをビジュアルで表すのはちょっと抽象的すぎるし、分かりにくいかな?、というのがあって結局FREEというのに行き着いています。
―小野さんが作られた作品が延岡市内たくさんありますよね。
小野:延岡市の仕事は、高速道路が開通する頃から関わらせてもらっています。延岡市の長期総合計画の方向性を分かりやすく伝えるために『延joy』というコピーを考えたり、イベントのポスターや情報誌などを作らせていただきました。
最近は東九州バスク化構想にも関わらせてもらっています。
他には、他の市町村、例えば椎葉村でも色んな事に関わらせてもらっています。
―椎葉村はエンクロスでも特産品も数多く扱わせて頂いていますし、フリーペーパーも置かせて頂いています。
小野:ねむらせ豆腐はあります?(※エンクロスの特産品で取り扱いあり) あれ、僕大好きなんですよ。
だんだん納豆っていうのもあるでしょ?ずっと買っていたのですけど、社長の中瀬さんという方から、「その瓶詰をターゲット広げて売れるようにしたい」という相談があって。「ワインと食べる、ねむらせ豆腐というコンセプトでやりましょう」と言って一緒に商品開発をさせてもらいました。
この冊子『ONLY ONE Shiiba』は、最初、役所から「情報誌を作ってくれ」というオーダーだったのですが、「村のブランディングのつもりで!」という気持ちで作らせてもらいました。
さっき話した『ねむらせ豆腐』、『蕎麦の実フロランタン』のよこい処しいばやさんや鶴富屋敷のパンフレットなど、いろんな民間の方達がこのロゴを使ってくれています。今では村の特産品のほとんどにこのブランドシールが貼られるようになりました。
『ONLY ONE Shiiba』は10カ月かけて作ったのですが、勝手にサイト(http://shiiba.jpn.org/)を作って、取材した途中の過程とかを動画にして、アップしていました。そうしたら、今度はこれも勿体ないから活かしたい、となったんです。
東京とか名古屋とかから椎葉村に来て取材してくれるローカルライターという人たちと、僕が編集長みたいな感じでウェブメディアを回していく形で、年に2回ほど紙媒体で発行しようという取り組みがスタートしました。
役場も観光協会も『ONLY ONE Shiiba』ブランドを大切にしてくれて、長く役立ててくれるので、すごくやりがいのあることだなと思います。
―こうゆうのは、作っておしまいとかが結構多い中、すごいですね。
小野:それはしたくないです。民間のクライアントでも、ロゴデザインいくらですか?という相談があるのですが、基本的には単発で終わりという仕事はしたくないですよね。
これからどういう風にお店を作っていきたいか?とか、将来の事も含めて付き合わせてもらう事をお話してから、スタートします。すると、商品やサービスの提供が本当にそれでいいのか?という所の話にまでなってくる。
そういう付き合い方で仕事をすると長く付き合うので、クライアントさんは増えていき、仕事が多岐にわたってきますね。
―大変ではないですか?
小野:大変です。そうなんです。途中でフェードアウトするクライアントさんがそんなにいないんですよね。ずっと残る。限られた予算の中でクライアントのしたい事、困った事、あらゆる事に対応したいので・・・楽ではないです。
―ブランド価値は落としたくないけど、「時間と予算が・・・」みたいな感じですよね。
小野:そうですね。こうゆう仕事のやり方って、東京とか福岡だったらなかなかやれないと思います。代理店がいたりして分業がすごく進んでいるから。
僕がオノコボで関わっている仕事のやり方を、例えば、コピーライターがいて、カメラマンがいて、デザイナーがいて、あとディレクターがいてとすると、費用が相当大きくなる。それを僕とスタッフとだけでやっているからクオリティはさておいて、一応はフルセットでの提供ができます。
―一人三役で提供します、みたいな感じですね。
小野:そうです。デザインだけして終わりというのは、無責任な気がしてしまうんです。商品作れば、POPも作るし、売場のデザインもしたりとか、広告もやるし…。ホームページまで簡単なのを作ってあげるとか。
―素晴らしいですね。
小野:そのくらいしないとやっぱり食っていけないですもんね、延岡っていう場所は(笑)。何でもしますっていうスタンスでいないと…。
―分業で細かく分けて、その分の対価を貰うっていうやり方というよりも、最初から最後まで付き合って、信頼を得るから、次の評判を口コミで繋がっていくっていう考え方がいいですよね。
小野:そうですね。確かにそういう…営業とかは一切しないですからね。
―僕らも頼まれてないけど、やっちゃうみたいな部分があるので…。その部分は非常に共感できます。
小野:余計な仕事を作るのが好きなんですよね。いや、余計というわけではないんですけど、やらないといけないからやっているという感じだと思います。
―もっとこうしたら良くなるというのが見えてしまってるんだと思います。エンクロスにも、ぜひ継続的に関わって頂きたいです!
小野:そうなんですよ!
なんとかして関わっていかないと思っていて、デザインに関する事で、僕も何かしなきゃなと思っています。前に1回「ノベクリ」(延岡クリエイティブの略)というのをやった事があるんです。
それは「クリエイティブ」という括りで、デザインでも、建築でもいいし、写真とか何でもいいんですけど、とりあえず「クリエイティブ」という言葉をテーマにして、何かを作り出す人たちが集まるようなサークルを考えていました。
それぞれが得意な事をシェアしていく集まりでいいかなと思っていて、2回やりました。
1回目は、僕の知り合いで、東京でクリエイティブディレクターをしている田中淳一くんに地域でクリエイティブな活動が必要か?というようなトークをしました。
2回目は、北浦の牡蠣家というカキ小屋できる時に「どういう牡蠣小屋にしたらいいか?」というのを提案しようと言うことで、実際に筏の上で牡蠣やカンパチを食べながら・・・ワインとか持ち寄って、ただの飲み会なのですけど…。
それで、もう折角だったら「いわゆる田舎のカキ小屋じゃなくて、かっこいいカキ小屋にしよう」と意見を言ったりしました。
―その際の意見が、反映されたりしたのですか?
小野:結構反映されていますよ(多分)、実際にオシャレな空間になりましたし、ワインを常時置いています。パンフレットもデザインもさせて貰っています。
―今、地域を元気にする企画や事業には、デザインやクリエイティブな力が入っている事が多いですよね。
小野:うーん、そうですね。地方×クリエイティブというのは、もうあまり目新しさが無くなっています。だから、いかに地元に根差して、長く、息の長いものとして定着するかが大事で。
よそから有名な人が来て種は撒いてもらったとしても、それが根差して本当の地元の力にならないといけないと思います。そこが、まだ根付いてない所が多いのではないかという気がします。
―地方で、デザインにお金をかけるという価値観がようやく浸透してきたかと思いますが、理解されるのが、大変な時期はありましたか?
小野:デザイナーの先輩たちもいたのですが、昔は「なかなかデザイン料という項目を見積に書けない」と言っていました。
パンフレット作るのに、印刷屋さんの見積にデザイン料は書いてなかった。お客さんにデザイン料を負担させるっていう事が出来なかったんです。
自分がデザイン事務所としてやっていこうと思った時に、どんな小さな仕事でも見積に企画費やデザイン費を書くように努力しました。
なぜ、いつからデザインで食べていけるようになったかは・・・不思議ですね、覚えてないですね。
でも、きっかけは霧島酒造さんが年に1回、県内のデザイナーを集めてやるコンペでしょうか。宮崎市の西橘通の街灯に月替わりで50枚のフラッグを立てるもので、応募して、3年連続で賞をもらって、グラフィックデザイナーって名乗っていいな?という自信につながりました。
デザイン、クリエイティブで生きて行くんだと確信したのが35歳位でした。最初はえんりょう自動車学校さんや桝元さんなどのブランドつくりやデザインの仕事をさせてもらいました。
―桝元さんもされていたのですか?
小野:桝元さんは今でもずっと仕事をさせてもらっています。社長が同い年で青年会議所の仲間でもあったので。他にもたくさんの先輩方も・・・そうやって育ててくれた経営者の方達が僕のチャレンジを物心両面で支えてくれたんですね。
そのかわり田舎だけど、東京とか大阪に負けないようなクオリティを目指そうという気持ちでやっています。「ローカルだから、このくらいのレベルでいいでしょ」とは絶対にしたくないなと思っています。そんな気持ち「メジャーデザインを目指せ」という言葉を書いて壁に貼っています。
「メジャーデザイン」という言葉はないんですけど・・・仕事をする上で、著名なデザイナーたち、例えば同世代の「佐藤可士和、水野学、佐野研二郎だったらどういうデザインするだろう?」ということは常に考えていました。
金額も規模も全然違うのですが、その人たちに見られた時に恥ずかしくないレベルを目指そうと思っています。だから、デザインの雑誌などは常に購読しています。
印刷会社などの企業の中にいるデザイナーさんとは違うから、印刷や物の売り上げで利益を出さないので、デザインで金をもらうしかない。そこ手を抜いたら存在意義がなくなります。
だから、時間はかけるし、何度もやり直します。そこまでやると、努力を評価してくれて、次もお願いしますというお客さんがたくさんいたので、やってこられたという感じです。
最近はデザイン料の説明をしなくても、クライアントも分かった上で発注してくれます。
―ブランドが確立したんですね。
小野:無理してきてよかったなと思います。
―何年か前にD&DEPARTMENTのd47の日本を代表するローカルデザイナー47人にも選ばれていらっしゃいますが、それはどういう経緯で選ばれたのでしょうか?
小野:そこは聞いてないんです。デザイナーの組織で日本グラフィックデザイナー協会や九州では、九州アートディレクターズクラブ、宮崎には宮崎デザイナーズクラブがあって、色んな人と交流するので、声がかかったのは、多分、宮崎誰かいませんか?となった時に、誰かが推薦してくれたのかなと思います。
東京に出展してくださいとのことで、この薪能のポスターを持って行ったんです。これが唯一、薪能で採用されたポスターです。その後は何回か出したんですけど、全然通らなくて(笑)、何回か出し続けたのですが全然採用にならなくて最近は諦めました。
―渋谷のヒカリエでこの企画展をやったのですよね?
小野:はい。いつか『d&design travel』の宮崎版をもし作るとなった時に、宮崎のデザイナーで対応できるかなと思っていて、『himuka』も『ONLY ONE Shiiba』も結構、意識しているんです。だから、『ONLY ONE Shiiba』が『d&design travel』に取り上げられてうれしかったんです。
僕が宮崎県のデザイナー代表として声がかかるのは、外に出ていくことが多いからだと思います。色んな人と交流してコネクションとか技術的な事とか考え方を、持ち帰ることの方が大事だと思っています。福岡の飲み会にただ飲みに行くとか、熊本の温泉でちょっと集まって・・・とか、そういうデザイナーとの交流に極力参加するようにしています。
元々修行とかしてないし、誰かの弟子に付いてないというのもあって、日本中の皆さんが先生みたいなイメージでいます。結果的にそれがよかったと思っていて、今後もそれを続けたいと思っています。
―すごいですね、常に学び続けるっていうのは。
小野:あと3年前くらいに、宣伝会議のコピーライター養成講座というのがあって、半年くらい福岡に毎週通いました。
―小野さんが生徒として参加するのは、かなり驚きがありますね(笑)。
小野:そう。自分は45歳とかで、他はみんな若い学生です(笑)。元々、仕事で文章を書くのを頼まれたので、やっていたわけですが、裏付けがないじゃないですか。自分にコピー書いていいという免許みたいなものが欲しくて、行きました。
そうしたら、とても勉強になって、仲間も増えました。コピーライターを現場でバリバリやっている人たちが講師で来るのですが、自分より若い人たちだけど、とても楽しかったです。で、半年経って「よし、これで俺もコピーでお金もらってもいいな」と(笑)。
―コピーライターも免許じゃないですもんね。
小野:名乗ったもん勝ちです(笑)。まだ多少は抵抗がありますが、コピーとして頼まれれば、ちゃんとお金もらいますという風になりました。
―デザイナーであり、コピーライターであり、コンサルティング的なこともされていますし。
小野:立場によっては、クリエティブディレクターもやっています。高鍋でやっているプロジェクトは県内のデザイナー5人に集まってもらって、『まんぷく高鍋』(http://manpuku-takanabe.net/)という高鍋の町のブランドを作っています。事業者さんがいて、役所がいて、デザイナーがいて、事業者さんが持っている商品を新しく商品開発してブランドを作っていくって事業なんですけど、そこでは、「もう小野さんはデザインをしないで、ディレクションだけしてくれれば良い」ということになりました。
―クリエイティブディレクターって何をやっているかっていうのが分かんないですけど...
小野:うん、何やっているか分かんないですね(笑)。
デザイナーに指示する人をアートディレクターというのですけど、アートディレクターも含めて全体的なプロジェクトの指揮を執る人がクリエイティブディレクターです。
一番大きいのは、人をどこにどう配置するか、ということです。それと最終的なOKを出すというのが仕事ですかね。
―そのOKの基準はどう判断されるのでしょうか?
小野:最初に事業の目的やコンセプトを決めるので、判断は「それに沿っているか、沿ってないか?」ということですね。そこを忘れて、段々と現場の方に引っ張られていくと、判断が出来なくなっていってしまう。
だから、僕はクリエイティブディレクターの場合は、手を出さないという事を決めときます。見ない、聞かないぐらいにしておいて、最終的に上がってきたモノが、「計画した骨組みに合っているか?」という判断をするものだと思います。理想的には。
僕はそれを出来てないですけどね(笑)。流されたり、手も出したりしてしまうので。人もうまくまとめられないし。
―自分がやったほうが早いのではないかと思ってしまうこともありますよね。
小野:ありますよ。でも、それだと後が続かないというのが分かっていますから。途中で根負けしたらいけないなと思ってやっています。
―デザインだけじゃなくて、包括的に関われる方がやりがいを感じますか?
小野:そうですね、必要とされれば・・・ですけどね。
1番やりがいがあるのは、今、地域ブランディングです。県北9市町村の情報誌『himuka』がひとつのターニングポイントにはなりましたね。最初作った時は、ハラハラドキドキもありました。
「観光客誘致のための情報誌」というオーダーだったのですけど、いわゆる観光情報のない情報誌を作ってしまったんです。「こんなの全然、観光に繋がらないじゃないですか!全ページ考え直して。」ってダメ出しされたんですよ。
例えば、椎葉村のページも一人のおじいちゃんを紹介してて、「これを見た人がこのおじいちゃん訪ねていける訳じゃないでしょ。」って。確かにそうですね。
でも僕は、これからの観光って、何となくこんな感じで捉えられていくんじゃないかのという自信もあったんです。その地域の空気感、生活している人たち、文化、風習、食。そんなものを飾らずに伝えることが、その地域のファンを作る事につながって、繰り返し訪れてくれる人が増えていくんだと今でも思っています。
結局、僕の当初の企画通りに作らせてもらった『himuka』は結構評判が良くて・・・。当時の担当の人たちとたくさん議論して、無理を通してもらって良かったなと感謝しています。
―少し話が変わるのですが、オノコボさんの中で、「デザインをする」というのが、どういう事なのか教えて頂きたいです。
小野:モノだったり、イベントだったり、伝えたいモノがあるからデザインが必要になってくるのです。伝えたいモノの一番良いところや伝えたいポイントを、凝縮して、分かりやすく、スッと伝えるのが、デザイン。
だから、ロゴでもキャッチコピーでも作る過程をいうと、まず「散らかして」、「捨てて」、で残ったものを「磨く」という3つのプロセスがあります。
まずは情報をバァーっと全部入れて色んな可能性の案を立てて見る。その中で優先順位の低い、余計なものを捨てていって、一番大事なものは何かというのが残る。それを磨いて見た目を良くする。
見た目を良くするというのは、受け取った人が受け取りやすくなるということです。
デザインは、その過程のことと思います。
最終的に作るとこだけと思いがちですけど、その前のプロセスが大事で、どれだけそれを大きく、広く出来るか。
情報集めることがとても大事ですが、「あれもこれも伝えたいと」言って捨てきれないでいると、何が伝えたいのか分からなくなってしまいます。
本当に大事なものだけを残して、それが1つでも、2つでも、3つでもいいんですけど、それをまとめて、きれいな形で伝える。その3つの工程がデザインだと考えています。
―情報収集には時間をかけますか?
小野:そうですね。「一番大事にしていること何ですか?」と聞かれたら、「現場主義です」と言うんですけど。実際に人に会うとか、食べ物だったら食べてみるとか、それがないといけないなと思います。
現場に行くというのが大事です。
―デザインする時に大切に思っていることはありますか?
小野:自分をどの辺のクオリティに置くかということです。メジャーデザインと言いましたけど、東京の有名なデザイナーに気分的に負けない。
どんな小さい案件でも、クオリティが高いところを目指し続けるみたいなところが1つあります。
あとは、自分のカラーみたいなのをあんまり絞り過ぎないということです。結局、それが自分のカラーになっているのかもしれないけど。普通デザイナーはある程度自分の個性をもっている。
僕は節操が無いから、色んなパターンができるというか・・・結局、それぞれのクライアントに合わせることができる、ということなんだと思います。
小野が作るのだからこのデザイン!という風に、守備範囲を絞り過ぎないようにしています。
ぼくは、あんまりデザイナーという意識がないんです。絵がうまいわけじゃないし、センスが特別いいわけでもない。
だから、情報を整理して伝えるというのが、使命みたいに思っています。
極端な時はデザインする必要がない場合もあるんです。商品がいいものだったら、別に昔から使われているパッケージの方が売れるんじゃないかと思うこともあります。デザイナーが関われば全てうまくいくようなことが、過度に期待されていることも感じるし、デザイナー自身も勘違いしている場合もあります。
デザイナー同士で話していると、「もっと本質を考えないといけない、もっと方法があるはず」という議論になったりしますが、デザイナーなんてそんな偉そうなものじゃないし、何でもかんでも解決できるわけではないと思っています。
だから、クライアントに寄り添って、一緒に汗をかくという人でいたいと思うんです。
―デザインすることの魅力とは何ですか?
小野:デザインは人を感動させる可能性がある。極端に言ったら、人を泣かせられるチャンスを与えられていると思うんです。なかなか仕事で人を感動させられることって少ないと思うんです。
どの仕事でもチャンスはあると思うんですけど、それが一番、回数というかチャンスが多く与えられてると思います。料理で美味しくて感動したというのも感動ですけど、
デザインはメディアを通して、不特定多数の人にバーッと広く伝わります。
今思うと、昔から人に褒められるのが好きだったんです。人に褒められる仕事が、モチベーション上がる。
一つのデザインや文章、写真で表現したものが、いろんな人の目に触れて、プチ感動をいっぱい作ることができます。デザインを必要としていた人たちもハッピーになって、それを受け取った見ず知らずの人たちもハッピーになれば、褒められる回数が爆発的に増える(笑)。
―褒められたいというのは、小野さんの子どもの頃の体験に関係あるんでしょうか?
小野:褒められたいというのは関係ないのですが、実家が上祝子で上の方で、そこで育ったというのが、デザインに役立ったと思います。
(あるデザインを指さしながら)これは真ん中に置いているけど、こっちは真ん中じゃない。これには根拠が無いんです。
これはデザインの専門家先生には怒られそうな話ですけど・・・何で自分がこんなバランスで配置したのかというのを考えると、子どもの頃に自然の中で、人工物じゃないところで育っているところから来ているんじゃないかと思うんです。
葉っぱとか水とか虫とかいろんな物の中で育っていて、きっちり割り切れない美しさみたいなのが、小さい時に培った感性だと思っているんです。都会の人には、会得するのは、難しいことだろうなと思います。
最近は、デザインでも論理的なものが流行ったりしているのですが、なんとなく書いた曲線が綺麗という感性も必要だと思っていて、それは自然の中で培われたんだろうなと思います。
小さい頃の体験とか体に染みついているものは、自分で狙って体験できないですからね。
まあ、半端な田舎じゃないですからね(笑)。上祝子のうちの実家。
今、実家でコメ作りとかもしていて、週に1度は上祝子で寝泊まりもしています。田舎を大事にして、田舎のメリットを活かしていきたいと思っています。
―最後に、延岡の好きなところって何かありますか?
小野:言い古されているかもしれないですけど、なんと言っても「刺身が美味しい」ですね(笑)。